狩野城のこと

2015-106修禅寺ニュタウンがある山を下り、その南にある伊豆市役所から136号線を南下して、3kmほど行った山間に、狩野城、というお城の城跡があります(地図はこちら)。

狩野川の本流からは1kmほど西にあります。場所としては、本柿木というところにあることから、古くは本柿木城とも呼ばれたとかで、この地が、狩野川の名にもその名を残す、「狩野一族」と呼ばれる武士集団の発祥地とされています。

狩野城は、西暦1100年前後の平安時代に狩野氏の始祖、狩野維景により造られたと考えられています。250年の間狩野氏はこの城を本拠地に中伊豆地方に勢力を振いました。維景から数えて5代目の狩野茂光は「保元の乱」に、源頼朝のお父さん、源義朝の助っ人として加勢しており、以後、一族は源氏に重く用いられました。

狩野氏は源氏の興隆と共に栄え、執権北条氏の時代とその後の室町時代まで生き続けますが、伊勢新九郎(北条早雲)によって攻撃され、1497年に敗れて狩野城を開城。その後、北条氏に仕えるようになりますが、小田原に移封された後、豊臣家との戦いに敗れ、北条氏とともに滅亡しています。

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以下、もう少し詳しく、狩野氏の盛衰について書いてみましょう。

藤原鎌足の十代あとの孫、藤原為憲は940年(天慶3年)、平将門の乱に討伐の功があり、賞せられて駿河守に任じられました。その孫の維景は任を辞して、狩野郷日向堀内(現伊豆市日向、市役所より2kmほど南)に来住し、初めて狩野を姓としました。これが、1050年ごろだとされています。

ところが、日向は地勢平坦で要害に乏しいこと場所だったので、その後、現在狩野城史跡のある本柿木城山の地を選んで城砦を築き、堀を廻らし、天嶮の地形を巧みに利用しここに移り住みました。

維景の子、維職の時代には、伊豆押領使に補せられ、勢力は狩野、伊東、宇佐美、河津の各所から、伊豆諸島にまで及びました。

その頃、源為朝という男が、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎と称していました。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦するのですが、敗れてしまい、伊豆大島へ流されます。しかし、そこでも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配するようになったので、ついに業を煮やした後白河上皇が追討命令を出しました。

これに応じたのが狩野家の5代目、狩野介茂光。茂光は、近隣の武将(伊東、北条、宇佐美、加藤、新田、天野など)を従え、この為朝征伐に出向きます。激戦の末、為朝は破れ、自害します(1177年)が、このときの切腹が、史上最初の例なのだそうです。2015-107

この為朝征伐は、狩野介茂光の名前を天下に轟かせ、伊豆における狩野氏の存在を不動のものにしました。全国に八家しかない「介」という称号を用いていたことからも伊豆及び伊豆諸島のことごとくを領地として治めていた狩野氏の権力が絶大であったことがわかります。

それから3年後の、1180年。昨日お話したように、伊豆韮山の蛭ヶ小島に流されていた源義朝の子頼朝が、源氏再興を願い、山木判官兼隆を襲撃、ここに平氏追討の火ぶたが切って落とされます。茂光もこれに加勢し、ともに戦うことに意を決します。それから、六日後、頼朝征伐に平氏の軍勢三千騎が出向き、石橋山(神奈川県小田原市)で戦闘が始まりました。

ところが、この初戦で頼朝は負けてしまいます。自身は船で房州へ逃げ延び、共に戦った狩野茂光は戦死してしまいます。しかし、その後、頼朝は関東の武将を集め軍団を建て直し、富士川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに平氏を破り、奥州の藤原氏を倒して全国を支配、1192年鎌倉幕府を開きました。

頼朝に信頼されていた狩野一族は、その後も源氏に組みしていきます。茂光の子の、狩野宗茂は、一ノ谷戦いで捕虜にした平氏の総大将、平重衡を頼朝に請われて預かっています。頼朝が、いかに狩野氏を信頼していたかという証です。その後も、狩野氏武将は頼朝に従って各地に転戦し、武功をたて重く用いられました。

茂光の子、親光は奥州藤原氏攻めの総大将として参戦しているものの戦死しています。しかし、親光の子、親成(狩野家七代にあたる)が引き続き、鎌倉幕府に仕え、以後、狩野城を拡充しつつ、伊豆中部に勢力を張っていくようになります。

以後、鎌倉時代、室町時代と、狩野氏一族は伊豆の領主として君臨し、始祖の維景から数えると、約450年余りにわたり、その繁栄を築くことになりました。しかし、1497年(明応6年)、伊勢新九郎(後の北条早雲)によって本拠である狩野城を明け渡すことになります。

1491年(延徳3年)、伊勢新九郎(北条早雲)は伊豆を侵略し、狩野軍は敗れ開城。狩野一族を攻め、伊豆下田の関戸吉信を滅ぼし伊豆を平定した北条は小田原城を本拠地として関東一円に勢力を伸ばすようになるのです。

狩野城は落城しましたが、この後、狩野氏は滅亡したのではなく、早雲の温情を受け、一族は小田原へ移封(国替え)されます。このあたりの経緯はよくわからないのですが、伊豆の民からその善政をもって歓迎されていた早雲のことですから、最後まで誇りを捨てずに戦った狩野一族を、敵ながらあっぱれと思ったのではないでしょうか。

その後の狩野一族ですが、1534年(天文3年)には狩野左衛門尉という人が、北条氏に仕え、鎌倉の鶴岡八幡宮の「鶴岡惣奉行衆」という大役につき、1550年(天文19年)頃までには、一族郎党全員の小田原城下移住が完了したようです。

そしてその後、40年あまりにわたって、北条氏を支える重要な一派となっていきます。1559年に編集された、「小田原衆所領役帳」という北条氏の記録には、多くの狩野氏一族の名前が記載されているそうです。

このほか、1582年に北条氏の北関東への進出にともないはその一族が上野の国の津久田城、長井城の城番に抜擢されるなど、次第に北条氏の中でも重要な役を担うようになっていったことがうかがわれます。

しかし、安土桃山時代の1590年、北条氏が豊臣郡との戦いで敗れ降伏するとともに、狩野家も降伏。戦国武将としての狩野家はここで歴史から消え去っていきます。2015-108

ところが、これにさかのぼることおよそ150年ほど前の、1434年(永享6年)。狩野家の一族に狩野景信という人が誕生していました。絵師として名をはせた日本画の主流、狩野派の元祖といわれる人です。

狩野景信は、時の将軍、足利義教に見出され京に上り、画壇にさっそうと登場。将軍の前で富士の絵を描いたといいます。その子元信は画界に狩野派と称する流派を打ち立て、その後も日本の画壇において一世を風靡するようになります。

その後も、室町幕府の御用絵師となった狩野正信を祖として、元信・永徳・山楽・探幽・・・など名前を挙げきれないほどの多くの名人を輩出しており、江戸時代まで、約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていきました。

近世以降も日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したということで、琳派の尾形光琳、写生派の円山応挙なども初期には狩野派に学んでいるそうです。

武士としての狩野家は途絶えましたが、その一族の血は、その絢爛たる画風と共に、今に輝いているのです。2015-109

 

達磨山に登ろう

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三連休は終わってしまいましたが、秋が深まる中、伊豆の観光もこれからが本番というところではないでしょうか。

さて、そんな伊豆の中でもハイキングコースとして人気の高い達磨山のことについて書いておきましょう。ここ修善寺ニュータウンからは、クルマでわずか20分ほどで行くことができます。

達磨山は沼津市と伊豆市との境界にある982mの山です。山頂にかなり近い「戸田峠」や静岡県道127号線(旧西伊豆スカイライン)の途中まで車で行けることから、日帰りヒッチハイクにはもってこいの山です。

戸田峠(西伊豆スカイライン入口)まではバスも通っているようですが、おそらく多くの方が自家用車で行かれると思います。が、まず気になるのが駐車場の問題でしょう。戸田峠からのルートをとられる場合、ここには大き目の駐車場があり、おそらく20台以上の車が止まれると思います。ゲートなどはなく公共の駐車場なので無論無料で出入り自由です。

この駐車場は、休日はかなり混雑する可能性はありますが、通りがかりにここが満車になっているのを私はみたことがありません。ここからの達磨山までの距離は約2.2kmです。

もうひとつ、達磨山直下にも駐車場(地図はこちら)があります。ここのスペースはかなり狭く、車2台もしくは詰めて3台ほどです。ただ、これより200mほど下ったところに舗装はされていませんが、車が進入可能な空き地があり、ここなら30台ほどが止まれます。この駐車スペースもゲートなどはなく、常時オープンなはずです。

どちらを起点にされるかは自由です。どちらも登山道は非常によく整備されていて、さすがにハイヒールは止めたほうが良いと思いますが、スニーカーやジョギングシューズ程度でも十分対応できるでしょう。ただ、途中ぬかるんでいるところもありますから、町歩きの革靴はやめておいたほうが良いと思います。

戸田峠からのコースも達磨山直下からのコースも駿河湾と富士山の大パノラマが望めて非常に眺めの良いコースです。お天気の良い日で、少し運動もかねてリフレッシュしたい方は前者、時間がなくて、ほんの少しだけ登山気分を味わいたいという人は後者を選べばよいでしょう。前者の場合、所要時間は登り40分ほど、後者の場合は15分といったところでしょうか。

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戸田峠から登る場合、駐車場すぐ脇に案内看板がありますから、これに従い伊豆山稜線歩道を登ってゆきます。ここから達磨山頂まで2.2kmです。

登山道は木の階段で整備されているところと、何も整備されていない区間が交互にあらわれ、それをトレッキングしている合間合間に、駿河湾や富士山が望めます。途中、戸田港を一望に望めるところもあるほか、南のほうに目を向けると恋人岬の先端も見えます。

途中、稜線上の小峰といった感じの場所を通りますが、ここは小達磨峠と呼ばれています。が、山頂は狭く、木々が生い繁っていて展望はありません。ここからは、せっかく登ったのにと思うかもしれませんが、少し下ります。すると、旧西伊豆スカイラインの車道(県道127)がみえてきます。スカイラインの横には前述の舗装のない駐車スペースがあります。

ここから、車道に出たら、ほんの100m程あるけば、達磨山と直登のための登山道入り口があります。ここには上で述べたとおり、舗装された駐車スペース3台分があります。

ここから達磨山山頂までは、木造りの階段の緩斜面が続き、これを喘ぎ喘ぎ登れば、あっという間に(15~20分程度)で山頂へ辿り着きます。正確な標高は981.8m。一等三角点が設置されています。山頂は大きな岩と小さな岩の間に畳三畳分ほどですが、平坦な場所がある程度です。なので、大勢で行ってお弁当を食べるには不向きです。

が、ここからさらに南の船原峠へ向かう道があり、頂上から100mも下らないうちの途中途中にも「お店」を広げる場所が随所にありますから、頂上が他のグループに占領されていても大丈夫でしょう。

帰路は戸田峠からの方はもと来た道を戻るだけです。下り部分が多くなるので、往路よりも多少早く帰れるでしょう。帰る途中、晴れていれば真正面には富士山が見えるはずです。

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達磨山直下の駐車場付近から直登された方は言わずもがなです。すぐに下れます。でもせっかくですから、広大な駿河湾と富士山に囲まれた伊豆の風景を満喫しましょう。

この達磨山山頂からはさらに南の船原峠へ続く登山道が続いています。稜線上の一本道であり、ここからの駿河湾と西伊豆の眺めは抜群です。さらに体力や時間のある方はこれにチャレンジしても良いかもしれません。

達磨山の頂上からの眺めですが、山頂付近はササで覆われているものの、このササはひざほどまでの高さしかなく、ほかには視界を妨げるような大きな木は一切ありませんので、文字通り360度の視界が開けます。

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達磨山山頂からの眺め 富士山の手前の海は駿河湾

富士山や駿河湾はもとより、南側に連なる天城山も見え、東に目を向けると伊豆半島を南北に走る山稜を見渡すことができ、修善寺温泉方向の谷も見渡せます。

駿河湾のはるかかなたには御前崎を見てとることができ、さらにその向こうには南アルプス山々を望むことができ、冬場なら、これらの山々は白い雪に覆われています。2015-1030074

遠方に見えるのが南アルプス 左下は戸田港

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山頂から下の山腹は笹原の間にところどころごつごつした岩が飛び出ていて、改めてここが火山であることがわかります。よくみると山頂にころがっている岩も黒っぽい灰色で、小さな穴が開いているものも多く、その昔火山弾だったもののようです。

なお、この達磨山には、戸田峠からさらに東側1kmほど離れたところにある「だるま山高原レストハウス」からも登山道が整備されています。このだるま山高原レストハウスには、車が30~40台ほども止まれる大きな駐車スペースとトイレが整備されていて、「レストハウス」内でお食事や喫茶もできます。

ここからも駿河湾越しの裾野の広い富士山が展望ができ、さらに沼津市街が一望です。無論天気がよければ御前崎や南アルプスも見通せます。ここからも達磨山の南側にある金冠山や達磨山方面へ行くハイキングルートが出ていて、その途中に戸田峠があります。

なので、時間の更にある人は、ここに車を止めて、半日がかりで達磨山まで登り、頂上あたりでお弁当を食べて帰ってくる、なんてこともできます。家族連れのピクニックには最適なコースです。なによりも道が整備されていて、眺めが最高なのがいいですね。

最後にですが、達磨山山頂付近にトイレはありません。戸田峠にもありませんので、とくに女性の方はその対処法を考えてから登られることをお勧めします。

みなさんが達磨山に登られる時は晴れていてきれいな富士山が見えるといいですね。お祈りいたします。

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天城山あれこれ

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10月になりました。

これからはだんだんと寒くなっていきますが、それでも伊豆は太平洋側に位置するため、日本海側のような降雪に見舞われることもなく、秋から冬にかけては好天が続くことが多いのが特徴です。

しかし、伊豆半島全体をみると、各地域で微妙に気候が異なり、内陸部と沿岸地方では気象の特性が異なっています。東西の沿岸地方では、海水の影響を受けるため、一日中暖かいようですが、ここ伊豆市などの内陸では日中と夜の気温差が大きく、とくに冬期には夜間の冷え込みが一段と強くなります。

ここからもそう遠くない天城山付近では冬になると降雪も珍しくなく、ニュータウンでは、一昨年の1月にここは本当に伊豆か、と思えるほどの豪雪となりました。

この天城山を、単体の山だと思っている人も多いと思いますが、実際には最高峰の万三郎岳(1,406m)、万二郎岳(1,299m)、遠笠山(1,197m)等の山々から構成される連山の総称です。従って、「天城連山」が地理学的には正しい呼称です。

80万〜20万年前の噴火で形成され、火山活動を終え浸食が進み現在の形になったもので、火山学上では「伊豆東部火山群」に属します。伊豆半島の東部の伊東市の沖にある海底火山にも連なる火山群であり、伊豆半島有数の観光地である伊豆高原一帯や、大室山、火口湖の一碧湖、名勝浄蓮の滝や河津七滝も本火山群の影響によって生み出されたものです。

この伊豆東部火山群の活動によって、伊豆半島に多くの地形が生まれたわけですが、この火山群における火山活動は伊東市東部とその沖合いでの活動を除けばほぼ沈静化しており、先日の御嶽山のように今後大噴火を起こす、という可能性は低いようです。

ただ、伊東市などの地下では、フィリピン海プレートに載った地殻と本州側プレートとの衝突により現在でも大きな圧縮が生じている場所であり、こういう場所ではマグマの岩脈貫入が起きやすく、これが原因とされる群発地震がしばしば発生します。

2006年(平成18年)4月21日には、伊東市富戸沖を震源として発生したマグニチュード5.8 の地震が起こっており、震源に近い富戸では、水道管が数カ所破裂したほか、ブロック塀の崩落や、がけ崩れなども起こりました。

このときは、ここ伊豆市でも震度4を記録し、スーパーなどで商品落下被害があったそうで、このほかにも市内各地で建物や道路のひび割れ・陥没が数ヵ所発見されました。

陸上ではありませんが、海底で実際に火山噴火も起きています。1989年には、同じ伊豆半島東方沖で群発地震が発生しており、このときは伊東市の東方沖わずか3kmの海底で噴火がありました。その後この噴火地点には小高い海底火山があることが確認され、これは「手石海丘」と命名されました。

「伊豆東部火山群」では、有史以来、約2700年の間、火山活動がなかったことがわかっており、長い眠りから覚めた噴火だったわけですが、今後これと同様の噴火や地震の発生も全く考えられなくはないわけです。専門家は否定的ですが、天城連山の一部が噴火する、ということも可能性として少しは考えておいたほうが良いのかもしれません。

この「天城」という名の由来ですが、天城山は冬以外の夏季にも雨が多い多雨地帯であり、「雨木」という語が由来であるとする説があるようです。また、この地域にはアマギアマチャ(天城甘茶)という、ヤマアジサイに近い種類の植物が群生しています。

葉に多くの糖分が含まれているため、伊豆以外の各地でもこの葉を乾燥して「甘茶」をつくり薬用や仏事に用いる風習が残っているところがあります。私も飲んだことはないのですが、黄褐色で甘みがあり、長野県佐久地方ではこの甘茶を天神祭や道祖神祭等で神酒の代用として使う風習があるそうです。

そもそもは、お釈迦様が生まれたとき、これを祝って産湯に「甘露」を注いだという故事によるものだそうで、現在ではいわゆる花祭り(灌仏会)のときに、仏像にお供えしたり、直接かけたりするそうです。

潅仏会の甘茶には虫除けの効能もあるとされ、甘茶を墨に混ぜてすり、四角の白紙に「千早振る卯月八日は吉日よ 神下げ虫を成敗ぞする」と書いて室内の柱にさかさまに貼って虫除けとする、いう風習がかつては全国的にあったそうです。

そのアマギアマチャが伊豆の山地に多く自生していることから、かつて天城山周辺の住民にも同様の風習があり、これがそのまま天城山の名になったのではないかというのが、天城のネーミングの由来のもう一つの説です。

この天城山はまた、非常にたくさんの種類の落葉樹の森から形成される緑豊かな山域であり、これらの木の中には、建築材料に適したものも数多くあります。近世には徳川幕府の天領として指定され、山中のヒノキ・スギ・アカマツ・サワラ・クス・ケヤキ・カシ・モミ・ツガの9種は制木とされ、「天城の九制木」と呼ばれていました。

公用以外は伐採が禁じられていたといい、伐採されたのちに建築材として加工されたものは、幕府が建設する神社仏閣や城郭施設などにも使われたようです。

天城山は、代々「韮山代官」と呼ばれる幕臣が管理してきましたが、当主は代々「江川太郎左衛門」を名乗のりました。このうち幕末に活躍した第36代目の江川太郎左衛門こと、「江川英龍」が最も著名であり、一般には江川太郎左衛門といえば彼を指すことが多いようです。

この韮山代官が代々管理してきたこの地では、江戸中期ころから、ワサビ栽培もおこなわれるようになり、茶、シイタケと並ぶ豆駿遠三国の主要な特産物として、江戸に出荷されて流通するようになりました。

年貢としても納入されていたそうで、明治期には畳石栽培によってより産量が増え、現在では一大産地となり天城のワサビは全国的にみても最高級ブランドとなっています。

ただ、シイタケの栽培のほうは、江戸時代には伊豆ではあまり栽培されておらず、主として駿河(現静岡市)や遠州浜松方面で作られていたようです。が、明治期に天城湯ヶ島地区で栽培されるようになってからは、伊豆一帯にも広がり、これも現在は伊豆の一大ブランド品です。

修禅寺ニュータウンのすぐ近くには、県が運営する「静岡県きのこ総合センター」なるものがあり、原木シイタケを中心とするきのこ産業振興のための普及・指導及び、良質シイタケの増産技術に関する調査を行なっています。また、自然食品としての原木シイタケをPRし、消費拡大を図るために原木シイタケ栽培教室等を開催しています。

また、入場無料の展示室があり、ここでは、きのこの生態・きのこ生産のしくみ・シイタケ栽培の歴史などについて紹介しています。ぜひ、ニュータウンに来られたときは、立ち寄ってみてください(入場無料:年末年始を除く午前10時から午後4時まで、地図はこちら)。

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葛城山へ行こう

3-2伊豆も次第に秋色が濃くなってきました。

窓の外に目をやると、通称「虹の郷通り」と呼ばれる、ニュータウンの中心を通る大通りの桜並木の葉もかなり色づいてきました。この地よりも更に高所にある天城山などではもっと紅葉が進んでいるに違いありません。

天城山ではないのですが、先日、ひさびさに葛城山へ登ってきました。お隣の伊豆の国市にある、標高452mの山です。およそ1千万〜200万年前の海底火山の噴出物と、そこから削られた土砂が近くの浅い海底にたまってできた地層がフィリピン海プレートと本州側のプレートの衝突によって隆起してできました。

この山にはその北側の山麓に、ミカン園があるのですが、ここの駐車場から始まるハイキングコースの終点付近、八合目あたりに、ヒガンバナの群落がある、との情報を得たのが、行こうと思ったきっかけです。

地元の小坂地区の有志たちが、8年ほど前から植え続けて数を増やしてきたといいます。ミカン園から、せっせせっせと高度を稼ぐことだいたい50分ほど。なるほど八合目あたりからの斜面には、これでもか、とのヒガンバナ畑?が広がり、なかなか良い目の保養になりました。

地元の伊豆日々新聞には、「10万株」と書いてありました。が、これは少々誇張がすぎるのでは? どうなのでしょう。ただ、筆者が見ていない場所にも植えられていたのかもしれません。いずれにせよ、かなりの量であり、一見には値すると思います。今年はもう花の盛りは過ぎたかもしれませんが、来年を狙ってみてください。

ただ、葛城山はヒガンバナだけでなく、後述するように、色々な見どころがあります。小坂みかん共同農園」がハイキングコースの起点となっており、比較的広い駐車場もあります。ただ、筆者が行ったときは、駐車場は無料でしたが、10月からはミカン狩りが始まるようなので、何等かの規制があるかもしれません。

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この葛城山には、山頂までロープウェイも通っています。この小坂地区から少し西へ離れた、伊豆の国市役所近くにその起点があり、「伊豆の国パノラマパーク」の名称で親しまれています。なので、お年寄りや体が不自由な方、また登山が苦手、という人はこれを利用すれば、楽々山頂まで行くことができます。

山頂の展望所からは富士山や伊豆・箱根の山々をはじめとした360度の展望が広がっており、素晴らしい、のひとことにつきます。ツツジの名所としても知られ、山頂付近には約35,000本のつつじが植栽されています。野鳥の宝庫でもあり、動植物の観察ができるように自然観察路も整備されています。

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ところで、葛城山といえば、その昔は葛城嶺とも呼ばれた名峰、奈良の葛城山が有名ですが、なぜ伊豆に葛城山があるのでしょうか。

その由来を調べたところ、この葛城山山頂付近には、古くから葛城神社、という社が祀られており、この神社の名を取ったようです。

この葛城神社の本社は、大和国(現奈良県)の葛城下郡にあった、「倭文座天羽雷命神社」と古文書にあるそうで、要は大和から分社してできた神社のようです。いつぐらいからある神社なのかはよくわかりませんが、同神社近くに鎮座している百体地蔵が鎌倉時代の作とされていることから、すくなくともこれ以前の遷宮だと思われます。

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遷座された雷命神社がなぜ葛城神社と呼ばれるようになったかですが、これは同じ大和の国にある「金剛山」から来ているのだと思われます。奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境目にあり、修験道の開祖役小角(えんのおず、役行者(えんのぎょうじゃ)とも)が修行した山として知られている著名な山です。

その北側には、やはり「大和葛城山」と呼ばれる山があり、歴史的には、現在金剛山と呼ばれている山も含めてこれら一連の山塊を「金剛山」と呼んでいました。その第一峰は高天山と称する標高1,125mの嶺で、御所市にある「葛木神社」の本殿の裏にあたります。

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葛城山山頂からみた修禅寺ニュータウン

そして、おそらくはこの葛木神社の名称とこの大和葛城嶺の名をもらい、伊豆に分社した神社も同名にし、かつ山名も大和のものと同じ葛城と称するようになったのでしょう。

一方で、伊豆の葛城山は、地元では古来、寝釈迦山とも呼ばれていたようで、これは横臥した涅槃仏に似ていることから ついた名前のようです。なるほど今これを書いている真正面にある葛城山は少々横長で仏様のように見えなくもありません。

この葛城山のある、伊豆の国市の伊豆長岡町は、源頼朝が伊豆に配流された時のゆかりの地でもあります。このため、 源氏再興に係わる史跡や伝説も沢山残っています。 この葛城山にも頼朝が鷹狩りをしたといういい伝えがあり、 山頂には若き日の源頼朝が鷹狩をしたときとされる像があります。

また、鎌倉よりのちの戦国時代の葛城山付近は、しばしば戦場になったようです。伊豆国、駿河国の国境線にあたるため、山麓では北条氏(北条早雲を始祖とする後北条氏)と武田氏が幾たびか戦いました。北条氏は小田原にあった本拠の小田原本城を守るため、ここ葛城山に狼煙台を設け、武田勢の進撃をいち早く発見するのに役立てたと伝えられます。

これからは、秋晴れの良い天気の続く日が続くと思います。これから富士山が冠雪すれば、さらにその雄大な眺めが引き立つと思いますので、これから伊豆を訪れる方は、ぜひお立ち寄りください。

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ヒガンバナの季節

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少しずつ、秋が深まりつつあります。

あちこちでキンモクセイの良い香りがしてきますが、場所によってはヒガンバナが咲き誇っているところもあります。

修禅寺ニュータウンの中では、旧かんぽの宿の前の通りあたりに少しヒガンバナがありますが、全体的にはあまり群生しているところはありません。

しかし、すぐ麓の修禅寺温泉街を流れる修禅寺川(通称桂川)をやや上流に遡ると、そこに広がる水田の周辺にたくさんのヒガンバナを見ることができます。

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伊豆の他のあちこちにある名所ほどの量はありませんが、なだらかな丘陵のたもとに広がるこの地には、最近ではあまり見ることのできなくなった昔のままの里山の風景がそのまま残っており、刈り取ったあとの田んぼの間を散策しながら、ヒガンバナを眺めるのにはもってこいの場所です。

修禅寺温泉街から、桂川沿いの道路を歩いて15分ほど行くと、奥の院のほうへ向かう、湯舟川という支川との分岐に到着します。田園地帯はこのあたりから広がっており、おそらく地元の方が少しずつ植えてきたのでしょう。

時間が許せば、さらにこの湯舟川を遡った先にある、奥の院まで足を延ばしてみるのも良いかもしれません。かつて弘法大師がここで修業したとされる滝のほか、正覚院というお寺もあり、ここのイチョウの木もなかなか見事です。

まだまだヒガンバナが終わるまでには時間がありそうです。伊豆まで来られる機会があれば、ぜひこの地も訪れてみてください。

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