狩野城のこと

修禅寺ニュタウンがある山を下り、その南にある伊豆市役所から136号線を南下して、3kmほど行った山間に、狩野城、というお城の城跡があります(地図はこちら)。

狩野川の本流からは1kmほど西にあります。場所としては、本柿木というところにあることから、古くは本柿木城とも呼ばれたとかで、この地が、狩野川の名にもその名を残す、「狩野一族」と呼ばれる武士集団の発祥地とされています。

狩野城は、西暦1100年前後の平安時代に狩野氏の始祖、狩野維景により造られたと考えられています。250年の間狩野氏はこの城を本拠地に中伊豆地方に勢力を振いました。維景から数えて5代目の狩野茂光は「保元の乱」に、源頼朝のお父さん、源義朝の助っ人として加勢しており、以後、一族は源氏に重く用いられました。

狩野氏は源氏の興隆と共に栄え、執権北条氏の時代とその後の室町時代まで生き続けますが、伊勢新九郎(北条早雲)によって攻撃され、1497年に敗れて狩野城を開城。その後、北条氏に仕えるようになりますが、小田原に移封された後、豊臣家との戦いに敗れ、北条氏とともに滅亡しています。

以下、もう少し詳しく、狩野氏の盛衰について書いてみましょう。

藤原鎌足の十代あとの孫、藤原為憲は940年(天慶3年)、平将門の乱に討伐の功があり、賞せられて駿河守に任じられました。その孫の維景は任を辞して、狩野郷日向堀内(現伊豆市日向、市役所より2kmほど南)に来住し、初めて狩野を姓としました。これが、1050年ごろだとされています。

ところが、日向は地勢平坦で要害に乏しいこと場所だったので、その後、現在狩野城史跡のある本柿木城山の地を選んで城砦を築き、堀を廻らし、天嶮の地形を巧みに利用しここに移り住みました。

維景の子、維職の時代には、伊豆押領使に補せられ、勢力は狩野、伊東、宇佐美、河津の各所から、伊豆諸島にまで及びました。

その頃、源為朝という男が、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎と称していました。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦するのですが、敗れてしまい、伊豆大島へ流されます。しかし、そこでも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配するようになったので、ついに業を煮やした後白河上皇が追討命令を出しました。

これに応じたのが狩野家の5代目、狩野介茂光。茂光は、近隣の武将(伊東、北条、宇佐美、加藤、新田、天野など)を従え、この為朝征伐に出向きます。激戦の末、為朝は破れ、自害します(1177年)が、このときの切腹が、史上最初の例なのだそうです。

この為朝征伐は、狩野介茂光の名前を天下に轟かせ、伊豆における狩野氏の存在を不動のものにしました。全国に八家しかない「介」という称号を用いていたことからも伊豆及び伊豆諸島のことごとくを領地として治めていた狩野氏の権力が絶大であったことがわかります。

それから3年後の、1180年。昨日お話したように、伊豆韮山の蛭ヶ小島に流されていた源義朝の子頼朝が、源氏再興を願い、山木判官兼隆を襲撃、ここに平氏追討の火ぶたが切って落とされます。茂光もこれに加勢し、ともに戦うことに意を決します。それから、六日後、頼朝征伐に平氏の軍勢三千騎が出向き、石橋山(神奈川県小田原市)で戦闘が始まりました。

ところが、この初戦で頼朝は負けてしまいます。自身は船で房州へ逃げ延び、共に戦った狩野茂光は戦死してしまいます。しかし、その後、頼朝は関東の武将を集め軍団を建て直し、富士川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに平氏を破り、奥州の藤原氏を倒して全国を支配、1192年鎌倉幕府を開きました。

頼朝に信頼されていた狩野一族は、その後も源氏に組みしていきます。茂光の子の、狩野宗茂は、一ノ谷戦いで捕虜にした平氏の総大将、平重衡を頼朝に請われて預かっています。頼朝が、いかに狩野氏を信頼していたかという証です。その後も、狩野氏武将は頼朝に従って各地に転戦し、武功をたて重く用いられました。

茂光の子、親光は奥州藤原氏攻めの総大将として参戦しているものの戦死しています。しかし、親光の子、親成(狩野家七代にあたる)が引き続き、鎌倉幕府に仕え、以後、狩野城を拡充しつつ、伊豆中部に勢力を張っていくようになります。

以後、鎌倉時代、室町時代と、狩野氏一族は伊豆の領主として君臨し、始祖の維景から数えると、約450年余りにわたり、その繁栄を築くことになりました。しかし、1497年(明応6年)、伊勢新九郎(後の北条早雲)によって本拠である狩野城を明け渡すことになります。

1491年(延徳3年)、伊勢新九郎(北条早雲)は伊豆を侵略し、狩野軍は敗れ開城。狩野一族を攻め、伊豆下田の関戸吉信を滅ぼし伊豆を平定した北条は小田原城を本拠地として関東一円に勢力を伸ばすようになるのです。

狩野城は落城しましたが、この後、狩野氏は滅亡したのではなく、早雲の温情を受け、一族は小田原へ移封(国替え)されます。このあたりの経緯はよくわからないのですが、伊豆の民からその善政をもって歓迎されていた早雲のことですから、最後まで誇りを捨てずに戦った狩野一族を、敵ながらあっぱれと思ったのではないでしょうか。

その後の狩野一族ですが、1534年(天文3年)には狩野左衛門尉という人が、北条氏に仕え、鎌倉の鶴岡八幡宮の「鶴岡惣奉行衆」という大役につき、1550年(天文19年)頃までには、一族郎党全員の小田原城下移住が完了したようです。

そしてその後、40年あまりにわたって、北条氏を支える重要な一派となっていきます。1559年に編集された、「小田原衆所領役帳」という北条氏の記録には、多くの狩野氏一族の名前が記載されているそうです。

このほか、1582年に北条氏の北関東への進出にともないはその一族が上野の国の津久田城、長井城の城番に抜擢されるなど、次第に北条氏の中でも重要な役を担うようになっていったことがうかがわれます。

しかし、安土桃山時代の1590年、北条氏が豊臣郡との戦いで敗れ降伏するとともに、狩野家も降伏。戦国武将としての狩野家はここで歴史から消え去っていきます。

ところが、これにさかのぼることおよそ150年ほど前の、1434年(永享6年)。狩野家の一族に狩野景信という人が誕生していました。絵師として名をはせた日本画の主流、狩野派の元祖といわれる人です。

狩野景信は、時の将軍、足利義教に見出され京に上り、画壇にさっそうと登場。将軍の前で富士の絵を描いたといいます。その子元信は画界に狩野派と称する流派を打ち立て、その後も日本の画壇において一世を風靡するようになります。

その後も、室町幕府の御用絵師となった狩野正信を祖として、元信・永徳・山楽・探幽・・・など名前を挙げきれないほどの多くの名人を輩出しており、江戸時代まで、約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていきました。

近世以降も日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したということで、琳派の尾形光琳、写生派の円山応挙なども初期には狩野派に学んでいるそうです。

武士としての狩野家は途絶えましたが、その一族の血は、その絢爛たる画風と共に、今に輝いているのです。

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