天城山あれこれ

10月になりました。

これからはだんだんと寒くなっていきますが、それでも伊豆は太平洋側に位置するため、日本海側のような降雪に見舞われることもなく、秋から冬にかけては好天が続くことが多いのが特徴です。

しかし、伊豆半島全体をみると、各地域で微妙に気候が異なり、内陸部と沿岸地方では気象の特性が異なっています。東西の沿岸地方では、海水の影響を受けるため、一日中暖かいようですが、ここ伊豆市などの内陸では日中と夜の気温差が大きく、とくに冬期には夜間の冷え込みが一段と強くなります。

ここからもそう遠くない天城山付近では冬になると降雪も珍しくなく、ニュータウンでは、一昨年の1月にここは本当に伊豆か、と思えるほどの豪雪となりました。

この天城山を、単体の山だと思っている人も多いと思いますが、実際には最高峰の万三郎岳(1,406m)、万二郎岳(1,299m)、遠笠山(1,197m)等の山々から構成される連山の総称です。従って、「天城連山」が地理学的には正しい呼称です。

80万〜20万年前の噴火で形成され、火山活動を終え浸食が進み現在の形になったもので、火山学上では「伊豆東部火山群」に属します。伊豆半島の東部の伊東市の沖にある海底火山にも連なる火山群であり、伊豆半島有数の観光地である伊豆高原一帯や、大室山、火口湖の一碧湖、名勝浄蓮の滝や河津七滝も本火山群の影響によって生み出されたものです。

この伊豆東部火山群の活動によって、伊豆半島に多くの地形が生まれたわけですが、この火山群における火山活動は伊東市東部とその沖合いでの活動を除けばほぼ沈静化しており、先日の御嶽山のように今後大噴火を起こす、という可能性は低いようです。

ただ、伊東市などの地下では、フィリピン海プレートに載った地殻と本州側プレートとの衝突により現在でも大きな圧縮が生じている場所であり、こういう場所ではマグマの岩脈貫入が起きやすく、これが原因とされる群発地震がしばしば発生します。

2006年(平成18年)4月21日には、伊東市富戸沖を震源として発生したマグニチュード5.8 の地震が起こっており、震源に近い富戸では、水道管が数カ所破裂したほか、ブロック塀の崩落や、がけ崩れなども起こりました。

このときは、ここ伊豆市でも震度4を記録し、スーパーなどで商品落下被害があったそうで、このほかにも市内各地で建物や道路のひび割れ・陥没が数ヵ所発見されました。

陸上ではありませんが、海底で実際に火山噴火も起きています。1989年には、同じ伊豆半島東方沖で群発地震が発生しており、このときは伊東市の東方沖わずか3kmの海底で噴火がありました。その後この噴火地点には小高い海底火山があることが確認され、これは「手石海丘」と命名されました。

「伊豆東部火山群」では、有史以来、約2700年の間、火山活動がなかったことがわかっており、長い眠りから覚めた噴火だったわけですが、今後これと同様の噴火や地震の発生も全く考えられなくはないわけです。専門家は否定的ですが、天城連山の一部が噴火する、ということも可能性として少しは考えておいたほうが良いのかもしれません。

この「天城」という名の由来ですが、天城山は冬以外の夏季にも雨が多い多雨地帯であり、「雨木」という語が由来であるとする説があるようです。また、この地域にはアマギアマチャ(天城甘茶)という、ヤマアジサイに近い種類の植物が群生しています。

葉に多くの糖分が含まれているため、伊豆以外の各地でもこの葉を乾燥して「甘茶」をつくり薬用や仏事に用いる風習が残っているところがあります。私も飲んだことはないのですが、黄褐色で甘みがあり、長野県佐久地方ではこの甘茶を天神祭や道祖神祭等で神酒の代用として使う風習があるそうです。

そもそもは、お釈迦様が生まれたとき、これを祝って産湯に「甘露」を注いだという故事によるものだそうで、現在ではいわゆる花祭り(灌仏会)のときに、仏像にお供えしたり、直接かけたりするそうです。

潅仏会の甘茶には虫除けの効能もあるとされ、甘茶を墨に混ぜてすり、四角の白紙に「千早振る卯月八日は吉日よ 神下げ虫を成敗ぞする」と書いて室内の柱にさかさまに貼って虫除けとする、いう風習がかつては全国的にあったそうです。

そのアマギアマチャが伊豆の山地に多く自生していることから、かつて天城山周辺の住民にも同様の風習があり、これがそのまま天城山の名になったのではないかというのが、天城のネーミングの由来のもう一つの説です。

この天城山はまた、非常にたくさんの種類の落葉樹の森から形成される緑豊かな山域であり、これらの木の中には、建築材料に適したものも数多くあります。近世には徳川幕府の天領として指定され、山中のヒノキ・スギ・アカマツ・サワラ・クス・ケヤキ・カシ・モミ・ツガの9種は制木とされ、「天城の九制木」と呼ばれていました。

公用以外は伐採が禁じられていたといい、伐採されたのちに建築材として加工されたものは、幕府が建設する神社仏閣や城郭施設などにも使われたようです。

天城山は、代々「韮山代官」と呼ばれる幕臣が管理してきましたが、当主は代々「江川太郎左衛門」を名乗のりました。このうち幕末に活躍した第36代目の江川太郎左衛門こと、「江川英龍」が最も著名であり、一般には江川太郎左衛門といえば彼を指すことが多いようです。

この韮山代官が代々管理してきたこの地では、江戸中期ころから、ワサビ栽培もおこなわれるようになり、茶、シイタケと並ぶ豆駿遠三国の主要な特産物として、江戸に出荷されて流通するようになりました。

年貢としても納入されていたそうで、明治期には畳石栽培によってより産量が増え、現在では一大産地となり天城のワサビは全国的にみても最高級ブランドとなっています。

ただ、シイタケの栽培のほうは、江戸時代には伊豆ではあまり栽培されておらず、主として駿河(現静岡市)や遠州浜松方面で作られていたようです。が、明治期に天城湯ヶ島地区で栽培されるようになってからは、伊豆一帯にも広がり、これも現在は伊豆の一大ブランド品です。

修禅寺ニュータウンのすぐ近くには、県が運営する「静岡県きのこ総合センター」なるものがあり、原木シイタケを中心とするきのこ産業振興のための普及・指導及び、良質シイタケの増産技術に関する調査を行なっています。また、自然食品としての原木シイタケをPRし、消費拡大を図るために原木シイタケ栽培教室等を開催しています。

また、入場無料の展示室があり、ここでは、きのこの生態・きのこ生産のしくみ・シイタケ栽培の歴史などについて紹介しています。ぜひ、ニュータウンに来られたときは、立ち寄ってみてください(入場無料:年末年始を除く午前10時から午後4時まで、地図はこちら)。

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